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 第35回 全国結集東京南部大会

結集広告

 

 平成十一年六月五日(土)〜六日(日)の両日、東京品川の大崎、ニューオータニイン東京を大会会場として、第三十五回智山青年連合会全国結集東京南部大会が開催された。

 大会テーマ「二〇三〇年 結集への便り」のもと、司会進行にアビリーフ総合研究所所長土山信人先生をお招きし、高知智山青年会、智山教化センター、実行委員会に依る論議(ディベート)が行われた。

 十一時半から受付が開始され、十二時から研修会が開始された。

 先ず、「問題提起」、「ディベートの予備知識」が行われ、続いて模擬論議「結集やめるべし」、第一論題「散骨すべし」、第二論題「すべての僧侶は寺務に専念すべし」がディベート形式で行われた。

 午後六時からレセプションが行われ、先ず、法楽、主催者挨拶、来賓挨拶、そして大会宣言文が参加者一同により採択された。

 二日目は、各自チェックアウト後解散となったが、午前九時からは希望者によるオプショナルツアーが行われた。東京湾のうみほたる、横浜中華街、みなとみらいの観光が行われ、午後四時半には二日間の全日程を無事終了した。

 

 

開催趣旨  

 今回は、我が東京南部智山青年会が企画・立案をするという重責を担うこととなった。そこで、我が青年会では神中会長・須賀実行委員長のもと結集実行委員会を立ち上げ、度重なる会議を開き会員一同意見を出し合って、結集に向けてのテーマ・方策等を話し合った。その結果、以下のことを基本的なコンセプトとして進めていくことになった。

@        直接的・間接的を含めて、青年会会員全員参加型の結集にする。

A        寺務以外の仕事を持っている人のために、土・日曜日開催とする。

B        なるべく経費のかからない、手作りの結集にする。

C        過去の結集のテーマを鑑み、それに少しでも沿ったもので、なお且つ将来的にわれわれ青年僧侶あるいは、次世代の弟子たちが、必ず遭遇するであろう諸問題を刺激的にアピールすること。

D        結果を導きだすのではなく、問題を提起し参加者が各自考えてもらうことを念頭に、論議(ディベート)形式で行うこと。

以上のことを踏まえて、テーマを「二〇三〇年 結集への便り」とした。

 まず、論議(ディベート)の論題を数十の論題候補から幾たびかの深夜に渡る激論の末、「結集やめるべし」「散骨すべし」「すべての僧侶は寺務に専念すべし」の三つに絞り込んだ。そして、これらの論題に沿ってアンケートの設問を作成した。このアンケートは間接的にせよ全員参加を目指したものであり、智青連に登録されているすべての会員六四四人に直接郵送させていただいた。結果六四四通中二七二通の回答を得ることができ、集計結果をまとめて、結集の参加申し込み案内とともに再びすべての会員六四四人に再郵送させていただいた。その後、論議(ディベート)の資料となるようにクロス集計作業も行い、当日に備えた。これらの集計は、我が東京南部智山青年会会員各自手持ちのパソコンを駆使して、手作りで作成したことを付しておく。

 論議(ディベート)とは、ひとつの問題(論題)について代表者が自分の意見に関わらず肯定側と否定側に分かれ、一定のルールと資料に基づき議論を行うことである。そしてその議論を判定員に賛否どちらの意見に同意できるかを判定してもらうのだ。この基礎資料として、青年会会員の皆様によるアンケート結果あるいは、新聞記事・週刊誌等から必要なものをそれぞれの担当者が収集した。この中、我が宗団で五年に一度手間隙をかけて行われる「総合調査」とその結果をもとに分析される「教化宗団の現状と課題」がある。ともすれば、集計して出版してしまえば、「はい、それで終わり」的にもなりかねないものであったが、非常に役に立った。こんなにすばらしいものがあるにもかかわらず、書棚に飾っておく手はない。もっと活用する場を考慮していただきたい。ともあれ、論議(ディベート)の中でいろいろな意見を、具体的な数字や論拠を指し示しながらできたのは、非常に意義あることだったと思う。

 

問題提起  

 「世紀末」「二十一世紀」などの言葉がここ数年来、耳にする或いは、目にする機会が増えた。少々、手垢が付いた感があるが、改めて考えるとき非常に重みを持った言葉であることを知る。百年単位の時代に、いや寧ろ千年単位の時代にピリオドが打たれようとしている。

 近代国家の幕開けとされる明治政府は、神道を「国家神道」と定め、同時に仏教を廃仏毀釈といわれるように、弾圧した。この時点で寺院・僧侶は今で言う、リストラの嵐にさらされたわけである。また、敗戦によって占領軍は、あらゆる宗教を「信教の自由」の名の下に国家との関わりを禁止した。更には、農地解放のもと寺有財産を少なからず没収した。そして僧侶の身分さえ、その精神を骨抜きにした、といっても過言ではないと思う。

 このような時代背景の中で、当時の僧侶たちは「仏法興隆・寺院護持」の主眼を「衆生教化」の精神よりも「いかに食っていくか」に的を変えて、やっていかざるをえなかった。結果、「現世利益」と「死後儀礼」に活路を見いだし、教理教学とは関係なくとは言わないまでも(たとえば施餓鬼会における阿難と目蓮の混同)、実に涙ぐましい努力によって、ひとつのシステムを作り上げたのである。改めて当時の諸師先徳に深く敬意を表したい気持ちでいっぱいである。

 しかしながら今日、外に目を向ければ、脳死問題・クローン問題・環境ホルモン問題等の諸問題が山積みである。それらどれ一つをとってみても宗教者の意見が真剣に求められているだろうか。全く皆無に等しいのではないか。また、あらゆる業種業界がリストラの嵐にさらされ、血のにじむような努力を強いられる。それでも生き残ることが難しく経営者も働く人も身を削る思いである。

 昨年(一九九八年)の「敬老の日」には、満六十五歳以上の人口は、二千四十九万人となり初めて二千万人を突破し、日本の総人口の十六.二%に当たる、との報道がなされた。我々も、檀家・墓地等の後継者問題などで、少なからず現実のものとして触れていると思う。また、国立社会保障・人口問題研究所(旧厚生省人口問題研究所)が行った「日本の将来推計人口(平成四年九月推計)」とその後、平成八年十一月に発表となった平成七年の国勢調査の基本集計結果を基に、様々な観点から将来の人口を長期的に推計した「日本の将来推計人口(平成九年一月推計)について」という資料から、死亡数の推移を見れば、平成八年の九十一万人から一貫して増加を続け、平成四十八年(二〇三六)にはピークの百七十六万人、その後やや減少して平成六十二年(二〇五〇)には百六十六万人になるという。亡くなる方が増えれば葬儀も増える、この短絡的な考えの裏には、とてつもない危険が潜んでいる。今日、自然葬・散骨・友人葬などの記事に触れることが多いと思うが、これは本来、都市圏における墓地不足、永代使用料の高騰、そして故人の意志などに起因していると思われる。が、いつの間にやら環境問題や宗教無用論等の理由にすり変わってしまう。日本人の本来持っている何か大切なものを全く無視し骨抜きにしようとする。決してそうあってはならない。ただし、死の場面が増えれば増えるほど、すり変わりの危険性が増すのは明らかであるが。

 ところが、先ほどの先徳の築き上げてきたシステムの上に、何の疑いも無くどっかりとあぐらをかいている。このままでよいのであろうか。来るべく「二十一世紀」の次世代・次々世代に必ずやその報いを受けるだろうと。その報いが自分の弟子や子供たちに向けられた時、必ずや恨まれることであろう。永らく育んできたその基盤を再構築する事が、「世紀末」に生を受けた我々青年密教僧に課せられた責任ではないだろうか。

 前回の全国結集高知大会においては、「現代に寺院の可能性を問う」のテーマのもと、「現世利益」「死後儀礼」などに活路を見いだした諸師先徳の「いかに食えるか」から、一歩抜けだし寺院の本来持っているべき姿と果たすべき役割を具体的な事例を示しつつ、新しい方向付けを提起してくれた。今回の東京南部大会では、「世紀末」「二十一世紀」「宗教」をキーワードに前に述べた要因から近い将来必ず起こるであろう現実的な諸問題の一端を論議(ディベート)と言う方法によって、いち早くそして、多角的に問題を提起していこうという方法を取った。事が起こってからでは遅すぎる。否、今まではそれで通用してきたかもしれない、がしかし、この惨憺たる有様である。未来を見据える目を養うことが、我々にとって、非常に大切なこととなってくるのではないだろうか。

 

・模擬論議(ディベート) 「結集やめるべし」

肯定                                             

  目的は、無駄なお金・時間の合理化です。

  しかし現状では、開催者・参加者共に金銭的・時間的負担が無駄になっています。

  その原因の一つは、内容と参加者の目的とが食い違っていて参加者の満足度が低いことです。研修の場として期待されていながらも、参加者の目的は懇親が主です。二つめは開催者・参加者共に金銭的・時間的負担が大きいということです。

  そこで「結集やめるべし」に賛成します。「結集」とはお釈迦様の教えを確認し合うことです。開催者の目的が参加者において達成されていない以上、「結集」の名を名乗るべきではありません。

  「続けたほうが良い」としなかった人は四十一.二%も居るので、可能性もあります。結集をやめることにより参加機会の不公平も解消されるのです。

 

否定 

目的はお互いの意見交換、研鑚を積む場を維持することです。 

 現状において弊害は有りません。なぜなら既に結集は必要なものだからです。実際、半数以上の人が結集の意義を認めています。

そこで「結集やめるべし」に反対します。結集とは我々青年僧侶が集い、仏教を学ぶのは勿論のこと様々な問題を考え議論する場です。

実行可能性は低いです。なぜなら結集をやめたほうがいいと答えた人四%に対して、続けた方が良いと答えた人は五十八.五%だからです。   

金銭的・時間的負担は軽減出来ます。共同開催にすれば実行委員は増え、一年おきの開催ならば準備期間も増えます。また所属教区や地区青年会からの参加・交通費の一部助成により個人負担も軽減されます。

一人でも参加しやすいような企画や交友を広げやすい企画、テーマに会員の希望を取り入れる他、年ごとに開催日程を変え費用がかからないところで開催すれば問題は解決されます。 

  結集の廃止は青年会の停滞をもたらすのみならず、ひいては智山派の停滞へと繋がっていきかねません。

 

・第一論題(ディベート) 「散骨すべし」

肯定

目的は墓地問題解消の実現です。

 現状における弊害は、まず墓地の無縁化で四割の人が不安を抱えています。次に墓地不足の問題で霊園により自然環境破壊を起こしています。また、墓石は八十五%が輸入品なので、環境破壊は外国にまで及んでいます。

 これらの原因は、個人主義や家意識の変化によるシングルの増加や晩婚化、少子化による無縁の心配、そして都市部への人口一極集中や土地の高騰における墓地不足にあります。

 「散骨すべし」に賛成します。「散骨」とは火葬後にすべての遺骨を墓地以外の山、川、海、宇宙等に撒き、墓を設けないことです。

 法的問題はクリアーしているので可能性はあります。実際には二百回三百七十五人が散骨を実施し、一年六ヵ月の間に約三倍そして今後も増加する傾向にあります。

利点として、経済面での負担が軽くなります。山や海への散骨は合同葬十三万円、個人葬三十三万円、空からの散骨は四十万円となっています。

またシングル生活や子供を作らない夫婦等が増加している中、荒れた墓になるより、散骨をして自然に帰ったほうが、積極的に今を生きることができます。

年忌の法事等に変化はありません。さらに法事後の墓参の時間を参拝者との会話に当てれば、より寺檀関係が親密になります。

自然を守って行くことは、現代を生きる私達の義務なのです。

 

否定

「日本人の心の拠り所の保持と日本の伝統を守る」という目的のために反対します。

 現状に問題はありません。墓参りは先祖と対話し絆を確かめ合う大事な機会です。それに八十五%の人が散骨に反対し、なおかつ増えています。 そして我々自身も八十一.六%が「火葬後に墓地埋葬」を選んでいます。

  また、散骨を望む人々の代表的な会は会発足から約七年後でも人口の〇.〇〇五%しか居ません。この様な少数派の人の意見のみで日本の伝統を変えるわけにはいきません。

  よって「散骨すべし」に反対します。

  現在、散骨が可能な場所が全国で七箇所と不足しています。実際散骨が実施された時、結果として残るのは近隣の住民、土地の所有者の精神的苦痛のみです。海の場合は漁業権者に多大な損害を与えるでしょう。実行の可能性は低いと言えます。また散骨に利点はありません。お墓の無縁化は墓地の荒廃につながり、礼拝の対象の消失は先祖崇拝の気持ちが薄れることにもなります。

  「日本人の心の拠り所」を保持し「日本の伝統」を守るため、墓参りを途絶えさせる訳には行かないのです。

 

・第二論題(ディベート) 「すべての僧侶は寺務に専念すべし」

肯定

目的は真の仏法興隆、教化衆生の実現です。

  現状はまず、寺務以外への就業により、寺務がおろそかになっています。次に宗団が企画する平日開催の研修会に参加出来なくなっています。さらに兼務寺院の存在により青年僧が住職として活躍出来ず、在家の人に魅力あるお寺となっていません。

 「すべての僧侶は寺務に専念すべし」に賛成します。智山派すべての僧侶は、末寺すべての寺院の住職として、寺務を実践していくべきです。

 可能性は極めて高く、寺院総数からすればすべての僧侶が寺院住職として就任出来ます。

  以下の方法により収入の問題は解決出来ます。各寺院の護持費制度の見直しとして檀信徒に日一日一件あたり百円を徴収すれば、檀信徒五十件とすると年間に約百八十万円もの収入ができます。そこに智山派補助金制度を導入します。この制度は、寺院総収入に対し宗費とは別に累進課金を宗派に収めていただき、その源泉から収入の少ない寺院に補助金を助成するというものです。寺院の約六割が収入不足の寺院と仮定すると一寺院約八十万円を補助できる事となり、合わせると二百六十万円の収入を得る事が出来ます。収入面の原因を除くことができれば、弊害をすべて解決することができます。

 住職となり月参りを行えば、檀信徒との交流も図れ寺院に対する護持意識も高くなります。智山派全僧侶が住職であれば、宗派行政も活性化し発展すると確信しております。

 

否定

反対することが、寺院活動の護持と僧侶の資質向上を実現すると考えます。

 弊害の第一として、経営的に成り立っていない六割もの寺院が充分な収入を得て寺院活動や教化活動に専念するには、経済基盤確立のために檀信徒の生活に影響を与えるか、もしくは智山派教師四千人×十万円として月額四億円を社会が負担しなければなりません。第二点として、寺有財産の運用によって充分な収入を得ることのできる寺院は全体の二割もなく、まして過疎地域の寺院では檀信徒の減少傾向の中で将来性も含めて寺務に専念しろというのは酷です。

 次に現状においては、本宗の『宗制』では兼職を寺院活動・教化活動の一環として捉えています。住職・僧侶の資質が向上し、経験が寺院活動や教化活動に役立てられたという証拠もあります。地域密着性から考えても経済性の平均化は困難です。

 寺務以外の就業が、僧侶の資質を向上させ寺院の護持に寄与するものと考え「すべての僧侶は寺務に専念すべし」に反対します。

 

判定結果  

 結果判定-1 結果判定-2 結果判定-3

 

まとめ  

 今回の結集は、三つの論題で論議(ディベート)を行いました。参加者の皆さんに問題を提起して一緒に考えて頂くためにこの形式にしました。そして全員にこの論議に参加して頂くため聴衆の皆さんには審査をして頂きました。

 まず第一論題「結集をやめるべし」ですが、模擬ディベートとして参加者の皆さんにディベートの方法を解りやすいようにアレンジして行いました。この論題で皆さんに考えていただきたい点は、結集の開催にかけたお金と時間が無駄になるかどうかは、参加者の満足度によって決まるという点です。参加によって何かを掴めば満足感があるでしょう。そして懇親も結集の重要な役割の一つだと思います。楽しい懇親会をこれから行いたいと思います。それから開催者に関してですが、今回は「だれでも、いつでも、どこでも、できる結集」というコンセプトで行いました。多くのひとが参加できるような開催日程、そして開催地区に負担がかからないような金銭的や時間的な問題をどの様に解決していったらいいのでしょうか。そして継続の大切さもあります。次回の単独結集は佐渡教区で開催することが決定しましたが、これからも絶えることなく次世代に受け継がれていくことを希望します。

 次に第二論題の「散骨すべし」ですが、墓地を中心とする寺檀関係を見つめ直すための問題提起です。家意識の変化や個人主義による、墓地の無縁化やそれに対応する永代供養の必要性。戒名料問題といわれる葬儀における布施の高騰の問題。葬送の自由の権利を主張する風潮や散骨等の従来の埋葬によらない葬送への対応。現代の我々僧侶に対する社会一般のアレルギーの現れをどの様に捉えるか。また墓地不足の名のもとに行われている霊園の乱開発等や墓石を輸入することによる他国の自然破壊という問題、そして塔婆による森林の減少問題なども起こっています。墓地から離れることで先祖崇拝という日本人の心の拠り所と伝統が失われ、そこから寺檀関係が崩壊してもあなたの寺院教会は生き残れますか。

 最後の第三論題「すべての僧侶は寺務に専念すべし」は、何も兼職がいけないと言っているのではなく、僧侶としてのあり方を根本から見直したいと思いました。私たち教師の資質向上を目的とした研修会・勉強会等への参加機会の均等化と、社会問題などに機敏に反応できる知識の養成や未来を見つめる目が必要であると思います。さらに総合調査で言う「小規模寺院」の護持発展への可能性を探し求め、真言宗智山派の未来をもっと考えなければならないということでこの論題を行いました。今社会が非常に厳しい中で、「のほほん茶会」という清涼飲料水のコマーシャルが有りますが、あのように「のほほん」としていては私たちは駄目だと警鐘を鳴らしたかったのです。

 今回の結集はできるだけ少ない費用で開催しようとしましたが、やはり四百万円以上のお金がかかり、その半分が参加費そして残りが智山青年連合会の助成金と東京南部教区の御寺院教会や東京南部智山青年会有縁の御寺院教会の浄財、そして篤い志による賀儀に依るものです。

 この結集に参加された皆さんにとって有意義な結集にしていただくために、自分自身で、地区青年会で、これらの問題を考えて頂ければこの結集のすべてが生きてきます。この結集で再確認した問題が二〇三〇年どのような結果になっているか、ここに参加した私たちひとりひとりが確認できれば未来への希望がつながります。

 最後にこの結集にご協力いただきました、真言宗智山派、宗務出張所・別院真福寺、東京南部教区、協賛御寺院教会、全真言宗青年連盟、豊山仏教青年会、新義真言宗青年会、各地区青年会、智山青年連合会事務局、そして阿刀隆信教化部長様、井上康彦東京南部教区長様、智山青年連合会歴代会長様をはじめご来賓の皆様方、ご参加いただきました皆様、また論議にご協力いただきました、智山教化センター、高知智山青年会、講師の土山信人先生にはこの場をかりて感謝の意を表します。

 

大会宣言文  

 平成十一年六月五日、青葉まつりを前に第三十五回智山青年連合会全国結集東京南部大会を開催した。

 釈尊の入滅後、王舎城郊外に五百人の比丘たちが集まり最初の結集が開かれた。

 そして、総本山智積院の風信寮で昭和三十八年六月に第一回の結集が開催された。以来、三十五回目にあたる本大会で、智山青年連合会に所属する我々青年僧侶は、近い将来寺院と僧侶が遭遇するであろう種々の問題を再確認し、それを次世代にむけて便りに残せるよう、いまここに百人が結集し、「二〇三〇年 結集への便り」を大会テーマに自らの声で論議した。

 日本ではこれから、高齢少子社会のなかで、葬送の自由という意識の先行による墓地の多様化と散骨問題などから、寺檀制度の危機が囁かれ、宗教及び寺院離れがすすむと考えられる。

 今、両祖大師の流れをくむ末徒として、今後の結集を通してその教えを学び、次世代に向けて寺院と僧侶の在り方を再構築することをここに宣言する。  

         第三十五回智山青年連合会全国結集東京南部大会参加者一同  

 

 

 

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